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新選組の史実。結成から隊名由来・応募資格・主要メンバーや組織編成・隊服などを解説しています。

新選組あれこれ 第7号

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新選組の主要メンバー

 

前号に続きメンバーを紹介します。

 

 

謎の剣士、山南敬助(32歳)

 

新選組副長、総長

 

天保四年奥州仙台に生まれ、浪人の身になり江戸に出府する。名は藤原知信。一般的には「やまなみ」と読んでいる方が多いが、山南を「三南」や「三男」という記録がある事、現在もその読みの姓が実在する事から、「さんなん」だった可能性が高いと思われる。出府後、北辰一刀流の門を叩き、皆伝の肩書きを持つ。だが近年、清水隆氏の発見により小野派一刀流であったとされた。柳剛流中山幾乃進の「撹撃修行録」に飯田町堀留大久保九郎兵衛門人 一刀流 山南敬輔という筆跡を見届けたといわれている。御存知、北辰一刀流は小野派一刀流から学び得た技量に千葉周作の思想を加え、理論的に説明を加味することにより人気を得た道場である。小野派の構えは北辰一刀流も同じとなり、形が似る。
天然理心流の道場に入門したのは、万延元年(1860)頃と思われる。文久元年、近藤勇の四代目襲名披露の野試合に、山南も赤軍東之方中軍として活躍した記録があり、多摩の支援者宅への出稽古も任されていた。他流からの客人というより、すでに天然理心流の門人である、と考えるほうが良い。
小説等には土方との確執を取り沙汰されるが、上洛前に土方が実家に残した「豊玉発句集」には、山南兄を慕う句がある。
「水の北 山の南や 春の月」
山南は仙台(北の地)から来たりて春の月の如し。春と月は土方の俳句に好んで使われていた最高の言葉。春の月は、空気が澄んでいて奇麗に見える。一点の陰りの無い心を指して、称えているのである。不仲であればわざわざ山南と想起される句を残すことはない。
文久三年、浪士隊に近藤らと加盟し、京に入るも、清河に異を唱え残留。浪士隊内の覇権争いにも参加、近藤、芹沢と共に殿内の暗殺に加担。土方とともに副長職に就く。
山南は、近所では「親切者」で温厚な人柄と記述にもあるが、実は短気な一面も覗かせている。浪士隊上洛の途上、上長の態度が悪い事に怒って反発し、仲裁されているし、八・十八の政変で御所へ出陣する際、軽装備で先鋒を勤める事になった山南は「先頭に立つ自分に何故に重装備をさせぬ」とゴネて隊内の失笑をかってしまう。一本気で、筋道の通らぬことには熱くもなる真面目な気性を思わせる逸話である。
長く近藤の信頼を置かれ、知もあり腕も立つ。無論、芹沢暗殺にも加担している。山南は大きな戦力であったのだ。しかし、商家に押し入った強盗と自ら斬りあい、褒章も受けた「岩木升屋事件」を契機に、山南の詳細な活動は、途絶えてしまうのである。
新選組行軍録」にも山南の名は載っていないし、池田屋事変にも山南は参戦していない。屯所警護の責務を任ぜられ残留していたとの説があるが、池田屋事変で隊の人員を考えると、山南程の実力者を外すのは考えにくい。岩木升屋事件以降、几帳面な山南が多摩に年始の挨拶状を出すのを遅れたり、多摩からの旧友が屯所に尋ねてきても面会を拒否したりしている。岩木升屋で使われた刀の詳細な押し型が多摩に送られているが、激しく欠損した生々しい血刀の状況からも山南はかなりの深手を負ったのではないだろうか?それも剣士としては致命的な傷を。その後遺症で実務から離れ、自尊心の高い山南は躁鬱になったのではないだろうか。
無論、山南の人徳や功労を考えれば、体力では無理でも、知の面で働き、尊重はされる。しかし、自身は尊皇攘夷志士であり、意気盛んな性格であるのだから、武道重視の新選組の中で、動けないのが重荷となり心に陰を落としたと思われる。
元治元年秋、伊東甲子太郎が入隊する。伊東という文武両道の者が入隊して、山南は実務だけではなく、指導面でも隊から取り残されていったのではないだろうか。山南の性格上、耐え難い状況下であったと推測される。
伊東入隊から四ヶ月後、慶応元年二月二十三日、山南は切腹し果てるのである。伊東の人物に失望したとも、屯所移転の反対や土方との確執とも数々の理由を現代に伝えながら、いまだに詳細は謎である。
永倉や八木為三郎の晩年の回想によると「突然隊を脱走し、途中の大津で追手の沖田に発見され、屯所に連れ戻され、恋人明里と屯所出窓越しに最後の別れをした後、沖田の介錯切腹刑に処せられた」という。だが、事件後五十年以上も経ってから初出した脱走話に疑問点が湧いてくる。永倉は早い時点の文久報国記事では山南の死にふれていない。
新選組では、隊からの脱退は禁じていても、正当な理由と認められれば、去就は許されているのである。
義節を重んじる山南が、脱走の愚を犯すとは考えにくいし、西本願寺の寺侍で新選組の事情に詳しい西村兼文は、永倉たちの話の二十年前に自書「新撰組始末記」で「三南は憤激ノ余り一書ヲ遺シ丑三月下旬終二自刃二臥ス」と記されてあり、脱走の記載はない。
伊東は四首の山南挽歌を詠んでいるが、刑死にあった者への挽歌には到底思えないし、不慮の死を悼む友への挽歌に思えるのは私たちだけだろうか?
西村の文にあったように自身の意見が通らず、怒りを一書に書きなぐり自刃したと考える。
適正な判断が出来ないくらい自身が病に追い込まれていたのであろう。
近藤批判での自刃では隊内での影響が多大である。この批判で自刃を公表するわけにいかずかといって理由無しでの自刃では故人の侍としての面子がない。
脱走の罪は犯したものの潔く非を認め「局長令により武士として見事な切腹を果たす
との形をとり、武士としての面子を保たせ、死を飾ったのであろう。

 

 

本日は以上です。

 

 

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