ぼくらのサイトⅥ

新選組の史実。結成から隊名由来・応募資格・主要メンバーや組織編成・隊服などを解説しています。

新選組あれこれ 第8号

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新選組の主要メンバー

 

前号に続きメンバーを紹介します。

 

 

薄幸の天才、沖田総司(21歳・異説あり)

 

新選組副長助勤、一番隊組長

 

天保十三年、一説には六月一日、江戸で生まれる。父は奥州白河藩阿部能登守正備の臣、沖田勝次郎。長女ミツ、次女キンと続き、父が病弱のため、井上林太郎を養子として迎え、ミツの婿と決めた後に男児が出生、これが総司で、幼名は惣次郎春政といった。勝次郎の死後、林太郎の養子にして総司に沖田家を継がせようとしたが、万延元年頃、林太郎が何らかの理由で脱藩し、養子の件は途切れた。総司は幼くして天然理心流試衛館の近藤周助の内弟子となり剣を学ぶ。師範代になったのは十六の頃で、すでに近藤勇とは義兄弟の契りを結んでいた。家業の合間に習う門人が多い中、純粋に剣に専念して育てられた総司はまさに秘蔵っ子であった。三段突きを得意技とし、剣の腕は達人の域に至っており、永倉新八は「竹刀を持っては皆子供扱いにされた。本気で立合ったら勇もやられるだろう」と語った。多摩への出稽古にもよく歩いたが、若さゆえか総司の指導は短気で厳しく、門弟たちからは恐れられた。人柄は可愛がられ、土方歳三の姉おのぶから小遣いをもらったり、小野路で麻疹を発病した時は、小島鹿之助から、後年必ず名人になる身と安否を心配されている。色が浅黒く、口が大きく、やせて背が高く、酒が強く笑い上戸、いつも冗談ばかり言っており「ヒラメのような顔」と見た人は語っている。成人して、名を沖田総司藤原房良と改めた。
文久三年春、二十二歳の時、近藤ら試衛館の面々と浪士隊に加盟し、京に向かう。浪士隊には義兄林太郎も参加し、清河の帰府に従って江戸に帰ったが、総司は近藤らと共に残留、壬生浪士組が結成され副長助勤になる。壬生寺の境内で近所の子供たちを集めては遊び、先輩の井上源三郎が呼びに来ると「井上さん、また稽古ですか」と茶化すので、わかっていたら黙っていても来たらよさそうな、とぼやかれたという。そうした無邪気な人柄なのだが、人を斬るときは躊躇わずに斬った。芹沢鴨暗殺の際も、歳三と共に討入り斬殺する。
総司は新選組に並み居る剣客の中で一番隊と撃剣師範を任される程の剣技の持ち主である。
池田屋事件の際には、近藤が陣頭に立ち御用改めであると宣言した後、抵抗に転じた敵の手首を真っ先に総司が斬り落とし激戦に突入した。これを書き残した永倉は後年になって、近藤と自分が二階に討入ったと言を違えているが、否定すべきであろう。近藤が一番信頼している総司を連れて行かないはずが無い。総司が長州の吉田稔磨と、肥後の松田重助をあっさりと斬り捨てたと伝わる。夜の乱戦であり相手の顔も知らず、誰が誰を斬ったとの特定は難しいが、総司の腕を賞賛した逸話であろう。戦いの途中で総司は昏倒し、外に出されている。後年に永倉が「持病の肺患が悪化して倒れた」と回想したため、創作物では必ず喀血の場面となるが、血を吐いたかは記録にない。酷暑と激しい緊張と運動であり、他の要因で倒れたとも思われる。
池田屋以降、史実上の活躍は殆ど見られないが、在京中は常に助勤筆頭の位置に信任されたことは各種の名簿からうかがえる。一時は近藤が「剣流名を沖田へ譲り渡したく」とも記した。しかしやがて、総司は長い労咳(肺結核)の病魔との闘いとなる。医者の娘と恋仲になり叶わず、という逸話も、不治の伝染病であれば、周囲の反対もうなずける。慶応三年秋にはすでに自他とも病を認めており、隊を離れ療養したが、伏見に合流。だが墨染で銃撃された近藤と共に大坂へ後送、戦えなかった。慶応四年、鳥羽伏見の戦いに敗れた新選組は、富士山丸に乗り江戸に向かう。総司は寝たきりの状態だったが病人たちと相変わらず軽口をたたいており、近藤いわく、「あんなに死に対して悟りきっている奴も珍しい」と。総司は重病になった身を、浅草の松本良順宅から、千駄ヶ谷の植木屋平五郎(植甚)宅の離れに移って療養し、近藤は甲州に向かう前日に見舞った。「骨と皮ばかりの総司の顔を見たら、どういうものか涙が出てたまらなかった」と近藤は妻の常に語った。
この夜、総司も声を出して泣いたと伝わる。
総司も多摩まで従軍し、笑いながら四股を踏むほど元気だったとの説もあるが、死因の最たるものであった肺病の重病人を、新編成の軍に連れて廻るとは信じがたい。一緒に行っていれば・・・・という願望が、いつしか人の話に上り、伝わったのではないだろうか。
その後の四月二十五日、板橋で近藤勇は処刑されたが、植甚の者たちはあえて知らせず、総司は離別のあともしきりに近藤の安否を気遣い「先生はどうされたのでしょうか、便りは来ませんか」と繰り返し繰り返し尋ねていた。労咳よけになると信じられていた黒猫を斬ろうとして、果たせなかったという。

 

 

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新選組あれこれ 第7号

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新選組の主要メンバー

 

前号に続きメンバーを紹介します。

 

 

謎の剣士、山南敬助(32歳)

 

新選組副長、総長

 

天保四年奥州仙台に生まれ、浪人の身になり江戸に出府する。名は藤原知信。一般的には「やまなみ」と読んでいる方が多いが、山南を「三南」や「三男」という記録がある事、現在もその読みの姓が実在する事から、「さんなん」だった可能性が高いと思われる。出府後、北辰一刀流の門を叩き、皆伝の肩書きを持つ。だが近年、清水隆氏の発見により小野派一刀流であったとされた。柳剛流中山幾乃進の「撹撃修行録」に飯田町堀留大久保九郎兵衛門人 一刀流 山南敬輔という筆跡を見届けたといわれている。御存知、北辰一刀流は小野派一刀流から学び得た技量に千葉周作の思想を加え、理論的に説明を加味することにより人気を得た道場である。小野派の構えは北辰一刀流も同じとなり、形が似る。
天然理心流の道場に入門したのは、万延元年(1860)頃と思われる。文久元年、近藤勇の四代目襲名披露の野試合に、山南も赤軍東之方中軍として活躍した記録があり、多摩の支援者宅への出稽古も任されていた。他流からの客人というより、すでに天然理心流の門人である、と考えるほうが良い。
小説等には土方との確執を取り沙汰されるが、上洛前に土方が実家に残した「豊玉発句集」には、山南兄を慕う句がある。
「水の北 山の南や 春の月」
山南は仙台(北の地)から来たりて春の月の如し。春と月は土方の俳句に好んで使われていた最高の言葉。春の月は、空気が澄んでいて奇麗に見える。一点の陰りの無い心を指して、称えているのである。不仲であればわざわざ山南と想起される句を残すことはない。
文久三年、浪士隊に近藤らと加盟し、京に入るも、清河に異を唱え残留。浪士隊内の覇権争いにも参加、近藤、芹沢と共に殿内の暗殺に加担。土方とともに副長職に就く。
山南は、近所では「親切者」で温厚な人柄と記述にもあるが、実は短気な一面も覗かせている。浪士隊上洛の途上、上長の態度が悪い事に怒って反発し、仲裁されているし、八・十八の政変で御所へ出陣する際、軽装備で先鋒を勤める事になった山南は「先頭に立つ自分に何故に重装備をさせぬ」とゴネて隊内の失笑をかってしまう。一本気で、筋道の通らぬことには熱くもなる真面目な気性を思わせる逸話である。
長く近藤の信頼を置かれ、知もあり腕も立つ。無論、芹沢暗殺にも加担している。山南は大きな戦力であったのだ。しかし、商家に押し入った強盗と自ら斬りあい、褒章も受けた「岩木升屋事件」を契機に、山南の詳細な活動は、途絶えてしまうのである。
新選組行軍録」にも山南の名は載っていないし、池田屋事変にも山南は参戦していない。屯所警護の責務を任ぜられ残留していたとの説があるが、池田屋事変で隊の人員を考えると、山南程の実力者を外すのは考えにくい。岩木升屋事件以降、几帳面な山南が多摩に年始の挨拶状を出すのを遅れたり、多摩からの旧友が屯所に尋ねてきても面会を拒否したりしている。岩木升屋で使われた刀の詳細な押し型が多摩に送られているが、激しく欠損した生々しい血刀の状況からも山南はかなりの深手を負ったのではないだろうか?それも剣士としては致命的な傷を。その後遺症で実務から離れ、自尊心の高い山南は躁鬱になったのではないだろうか。
無論、山南の人徳や功労を考えれば、体力では無理でも、知の面で働き、尊重はされる。しかし、自身は尊皇攘夷志士であり、意気盛んな性格であるのだから、武道重視の新選組の中で、動けないのが重荷となり心に陰を落としたと思われる。
元治元年秋、伊東甲子太郎が入隊する。伊東という文武両道の者が入隊して、山南は実務だけではなく、指導面でも隊から取り残されていったのではないだろうか。山南の性格上、耐え難い状況下であったと推測される。
伊東入隊から四ヶ月後、慶応元年二月二十三日、山南は切腹し果てるのである。伊東の人物に失望したとも、屯所移転の反対や土方との確執とも数々の理由を現代に伝えながら、いまだに詳細は謎である。
永倉や八木為三郎の晩年の回想によると「突然隊を脱走し、途中の大津で追手の沖田に発見され、屯所に連れ戻され、恋人明里と屯所出窓越しに最後の別れをした後、沖田の介錯切腹刑に処せられた」という。だが、事件後五十年以上も経ってから初出した脱走話に疑問点が湧いてくる。永倉は早い時点の文久報国記事では山南の死にふれていない。
新選組では、隊からの脱退は禁じていても、正当な理由と認められれば、去就は許されているのである。
義節を重んじる山南が、脱走の愚を犯すとは考えにくいし、西本願寺の寺侍で新選組の事情に詳しい西村兼文は、永倉たちの話の二十年前に自書「新撰組始末記」で「三南は憤激ノ余り一書ヲ遺シ丑三月下旬終二自刃二臥ス」と記されてあり、脱走の記載はない。
伊東は四首の山南挽歌を詠んでいるが、刑死にあった者への挽歌には到底思えないし、不慮の死を悼む友への挽歌に思えるのは私たちだけだろうか?
西村の文にあったように自身の意見が通らず、怒りを一書に書きなぐり自刃したと考える。
適正な判断が出来ないくらい自身が病に追い込まれていたのであろう。
近藤批判での自刃では隊内での影響が多大である。この批判で自刃を公表するわけにいかずかといって理由無しでの自刃では故人の侍としての面子がない。
脱走の罪は犯したものの潔く非を認め「局長令により武士として見事な切腹を果たす
との形をとり、武士としての面子を保たせ、死を飾ったのであろう。

 

 

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新選組あれこれ 第6号

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新選組の主要メンバー

 

新選組あれこれ 第5号に掲げた編制の顔ぶれのうち、安藤、松原以外はすべて近藤の試衛館道場ゆかりの面々であり、彼らが新選組の主要メンバーでした。今回からはその横顔を簡単に紹介していきます。年齢は元治元年の池田屋事件当時のものです。

 

永遠の局長、近藤勇(31歳)

 

新選組局長、幕府若年寄


天保五年(1834年)十月九日武州多摩郡上石原の豪農宮川家に生まれる。父は、久次郎。三男坊の勇は、幼名を勝五郎。後に勝太と改称する。村のガキ大将で、大きな木に登っては街道を往来する人に悪戯をして追いかけまわされる生い立ちがある。仲間たちからの信頼は厚い。幼少の頃から、将器を持ち合わせていた気質なのだろう。
天領(幕府直轄領)の多摩一帯は武張ったことを好み、自警の意味からも剣術が盛んであった。宮川家にある夜、強盗が押し入り、兄たちが気がつき、退治しようとしたところ、弟の勝太だけが「押し入ったときは連中は気が立っているので手強い。物を盗りつくして逃げる時には、気が緩むのでその時に退治しよう」と冷静に言い、その通りに兄弟で見事賊を退治してのけたのである。この事が天然理心流三代目近藤周助の耳に届き、見初められたと言う。
寛永二年、周助の生家、島崎家の養子となり、その後に周助の養子となり、試衛館道場主近藤勇藤原昌宜を名乗る事となる。
万延元年三月二十九日、清水家の近習番松井八十五郎の娘、常を娶る。文久元年八月二十七日、理心流宗家四代目襲名披露を府中の六所宮(大国魂神社)の東広場で執り行なった。
若き新当主近藤勇の人柄と、尊攘の議論で政治サロン化した他道場にはない、「気組」で敵を制するという天然理心流の純朴な剣にひかれ、本来の門人たちのみでなく、他流を学んだ剣客たちが多く食客となる。天然理心流は多摩の豪農層に支援を受け続けており、出稽古先は多く、食うに困ることはなかった。しかし幕府が講武所の剣術教授を募った時、候補に上がった勇は農民の出身ゆえか、採用される事はなく無念をのむ。
文久三年 幕府の浪士隊に加盟上洛。宿割方として先発した。清河八郎の帰府に従わず残
留。会津藩御預となり壬生浪士組を結成す。八月十八日の政変に出陣し武家伝奏から「新選組」の名を授かる。当初は三局長制であったが、芹沢鴨新見錦を粛正後、近藤勇が唯一の局長となってからが新選組の本領発揮である。勇の志すところは尽忠報国、佐幕にあっての尊皇攘夷の魁となる事、であり、市中見廻りのみに従事する現況に満足していたわけではなかった。長州勢力の失地回復のため、祇園祭に乗じて京都に放火し要人を暗殺するという、不穏な浪士達の計画を知った勇は、元治元年六月五日、三条小橋の池田屋に自ら白刃を奮って小人数で斬り込み、一網打尽にする。「今宵の虎徹は・・・」の台詞は言ったのかどうか?この一夜にして、新選組は最強の剣客集団として勇名を轟かせた。勇の京都での存在も、次第に一介の浪士の長ではなく、重くなってゆく。下戸で、酒の席では自分の拳骨を口に入れてみせるのを芸にしていたという武骨な勇にとっては、気の張る場面も続いたことであろう。
慶応三年 新選組の百五名の隊士たちは、正式に幕府召し抱えの直参となる。
薩摩、伊予、土佐、越前の四候会議に同席した際には、勇は四候を窘め「親藩たる以上は、たとえ幕府に非があろうともこれを庇護すべきなのに、外藩に雷同するがごときは不可解なり」と松平春嶽を批判した。これこそ、本来の武士道である。
「長州討伐は朝廷の裁許を仰いだ事により幕府に非はない。ここに至り妄挙というのは、先帝を軽蔑、前将軍を踏みつけた暴言である。公武合体。朝幕の決議を貫くことこそ肝要」と言いきり、尊皇佐幕の立場で公武合体論を推進する。賀陽宮が、将軍の腹心(原市之進)の後継に勇を推したのは、大いに評価すべきである。
この年の十二月十八日、伏見街道藤森神社付近で、高台寺党残党に襲われ、肩を撃ち抜かれるが、気丈な勇は馬でその場を逃れる。鳥羽伏見の戦いに敗れた幕臣は朝敵の汚名をきせられたまま、江戸に撤退。新政府の東山道軍下向に際し、幕府は徳川古来の重要な拠点として新選組甲府城鎮撫を指示し、勇に若年寄格大久保剛を称えさせる。しかし甲州勝沼の戦に敗れ、再起をかけて大和と改称。幕臣として、徳川家と慶喜の処遇を見届けるため、勇はなおも会津出発の前に関東に留まり、下総流山に陣を構えるも敵襲に遭い、他の隊士を逃がす為に、自ら軍門に降る。
慶応四年四月二十五日、汚名をきせられ武士の切腹を許されぬまま、板橋平尾一里塚にて斬首。首級は京、三条河原でも晒された。その首級の行方は今もなお謎である。

 

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新選組あれこれ 第5号

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池田屋事件半年前の組織編制

 

新選組は刻々と編制を変え、機動力のある組織を追求しました。たとえば池田屋事件の半年前にあたる文久3年12月下旬に、新選組会津藩に提出した編制は、以下の通りです。

 

局長 近藤勇 副長 山南敬助土方歳三

副長助勤(ふくちょうじょきん) 一番 沖田総司(おきたそうじ)、二番 永倉新八(ながくらしんぱち)、三番 井上源三郎(いのうえげんざぶろう)、四番 藤堂平助(とうどうへいすけ)、五番 斎藤一(さいとうはじめ)、六番 原田左之助(はらださのすけ)、七番 安藤早太郎(あんどうはやたろう)、八番 松原忠司(まつばらちゅうじ)

 

一番から八番までの組(小隊)があり、各組は5人の編制で、幹部の副長助勤が各組を率います。さらに副長の山南と土方が、4組ずつ統率するかたちでした。つまり総勢で50数名を数えることになります。なおトップを局長と称するのは、新選組はあくまで会津藩の一部局であるという考え方によるものでした。

 

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新選組あれこれ 第4号

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新選組の組織編成

 

筆頭局長芹沢鴨の暗殺

 

新選組は結成当初、近藤勇のグループと芹沢鴨のグループが中心であり、当初の編制では、組のトップである局長は芹沢鴨近藤勇の2人で芹沢が近藤より上席、副長は新見錦(にいみにしき)、山南敬助(さんなんけいすけ)、土方歳三(ひじかたとしぞう)の3人で、やはり芹沢グループの新見が上席であるなど、芹沢らが存在感を示していました。近藤グループは近藤勇が江戸で開いていた試衛館(しえいかん)道場の門人、食客(しょっかく)らです。一方、芹沢グループは水戸の浪士とされていますが、不明な点が少なくありません。

ところが芹沢は、取り巻きを従えて日頃より商家から強引に借金をし、酒が入ると遊郭で乱暴狼藉を働くなど粗暴な振る舞いが目立ちました。治安を守るべき新選組の局長がこれでは、預かる会津藩としても黙過できず、ついに近藤に芹沢の処分を命じます。かといって処分に芹沢がおとなしく従うはずもなく、下手すると隊内でグループ同士の乱闘にもなりかねません。そこで近藤らは暗殺に踏み切ります。8月18日の政変から1ヵ月後の9月18日夜、酒宴の後、泥酔した芹沢らを斬り、芹沢グループを一掃しました。これを機に、新選組は近藤を局長、土方を副長とする指揮系統を整えていきます。

 

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新選組あれこれ 第3号

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新選組の応募資格とは

 

そもそも新選組の前身が壬生浪士組であるように、隊士たちは浪士です。浪士といえば主君を持たない武士ですが、生まれながらの武士かというと、必ずしもそうではありません。たとえば近藤勇は剣術の天然理心流(てんねんりしんりゅう)の第4代宗家ですが、もとは武州上石原(現、東京都調布市)の農家の生まれです。それが剣の腕を見込まれて、天然理心流第3代の近藤周助(こんどうしゅうすけ)の養子となり、農民から浪士になります。この辺が面白いところで、江戸時代は士農工商の身分が厳しかったと思われがちですが、農民でも町人でも、刀を差して武士の格好をすれば、浪士になることが可能でした。

従って、新選組の応募資格は身分や年齢を問いません。ただ当時の世論である「尊王攘夷(そんのうじょうい)」の志を持っているかが問われました。尊王攘夷とは「天皇を敬い、外国の侵略を退けよう」という考え方で、反幕府勢力の過激なスローガンと誤解されがちですが、実はそうではなく、外国の脅威から日本を守ろうと考える日本人であれば、当時誰もが抱いていたものです。その点では幕府も新選組も、長州藩薩摩藩も同じでした。それがなぜ激しい対立を生んだのかについては後述します。なお、尊王攘夷の志を持つ浪士であれば誰でも応募はできますが、新選組の任務は常に身を危険にさらすものです。当然、それに見合う武芸の腕が求められますので、決して安易に入隊できるものではありませんでした。

 

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新選組あれこれ 第2号

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会津藩から与えられた隊名「新選組

その後、壬生浪士組は隊士を募集し、会津藩の下で京都市中の治安維持にあたりますが、8月18日に事件が起こります。朝廷の公家に取り入って反幕府活動を行う長州藩を、会津藩薩摩藩が協力して追い落としたクーデター「8月18日の政変」でした。京都御所の門では長州藩会津藩が一触即発(いっしょくそくはつ)の状況となりますが、壬生浪士組も駆けつけ、長州勢は引き上げました。この事件が翌年の池田屋事件の伏線となります。

 

壬生浪士組はこの時の働きが評価され、会津藩より「新選組」の名を与えられました。新選組はもともと会津藩にあった剣客集団の名で、武芸に秀でた藩士で構成されていたといいます。その名誉ある名を受け継ぐにふさわしいと認められたのでした。なお新選組の「選」の字は、「選」と「撰」のどちらも用いられています。

 

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